生まれた所、生きた所、終わる所を描く。
路傍の画家「江上茂雄」
路傍の画家
「江上茂雄」
大牟田・荒尾の風景画など2万点
東京都美術館100周年記念で公開中
日本初の公立美術館として東京・上野公園に1926年オープンした東京都美術館(当時は東京府美術館)。そこで今、開館100周年記念「この場所の風景上野・大牟田・ブエノスアイレス」が開催されています。
えっ大牟田?と驚くでしょ。九州の炭鉱のまち大牟田・荒尾で生涯を過ごし、その場所の風景を描き続けた江上茂雄の100年の画業をみつめる―として300点が展示されているのです。「大英博物館日本美術コレクション百花繚乱」などと並ぶ同館100周年記念として、です。
えっ、大牟田・荒尾にそんな画家がいたの?と、また驚くでしょ。はい!ということで今回の「どがしこでん」特集は、2014年に101歳で亡くなった路傍の画家・江上茂雄さんです。
この場所ー
瀬高・大牟田・荒尾
江上さんは1914年(明治45)、みやま市瀬高町で生まれました。父は農家を嫌って左官職人で身を立てようと、炭鉱景気を見越して一家で大牟田に転居します。江上さんが幼少の頃。ところが江上さんが小学校6年生の時に父が病死。母子家庭となった江上家は、母が久留米絣の織子や魚の行商などをしながら家計を支えました。子ども3人を抱える江上家の生活は楽ではなく、江上さんの姉は小学校を出てすぐに住み込みの奉公に、妹は親戚の家に養女に出されました。男の子だった江上さんだけが残り、母は懸命に働きました。
江上さんは1929年、高等小学校を卒業し15歳で三井三池鉱業所建築課に入社。仕事は大学出の設計者が描いた図面のトレースと青焼き(コピー機がない時代の湿式複写機)。後には建築物と図面の照合、図面の整理などに従事しました。
三井三池鉱業所から、関連会社サンコーコンサルタント社に移籍して60歳で定年退職しました。この45年間は、まさに激動の時代。日中戦争が始まり(江上さん23歳)、太平洋戦争があり(江上さん27〜31歳)、激しい労働争議もありました。
2700人の指名解雇に反対する1953年の113日のストライキ(39歳)、1278人の指名解雇に抗した1960年の三井三池争議(46歳)。さらに三川坑炭じん爆発(49歳)も。戦時は空襲で逃げまどい、争議と合理化の嵐の中では職を失う不安もありました。
定年後は荒尾市に移り住み、101歳の天寿を全うしました。
これがごく簡単に記す江上さん。そうです、江上さんは生涯プロの画家ではありませんでした。
小学生から持ち続けた「画家として生きる」決意
それでも絵を抜きには江上さんは語れません。『ぼくは一人の画家として生きるんだ』と決めたのは、まだ小学6年生の時だったと言います。父を亡くした頃です。しかし絵描きを目指すには経済的にはとても困難な状況。それでも美術の先生に絵のうまさを見出され、目を掛けてもらい、教えも受けながら絵に懸命に取り組んでいきます。
この頃に描いたのは主に風景画。『自然は、みんなに同じ顔、風景だけは優しかった』と子ども心に強く思ったといいます。逆に言えば、人間、そして社会は、身分や立場、富める者と貧しい者の格差という、優しくなんかない姿として少年の目には見えていたのかも知れません。生涯を通して人物が描きこまれた作品は、自画像を除いては、ほとんどありません。
江上さんが三井三池鉱業所に就職したのは美術の先生とともに目をかけてくれた担任の勧めでした。
15歳にして江上さんは母に代わり一家を支えることになります。大黒柱として会社で真面目に働き、休みの日にだけ絵を描く〝日曜画家〞が誕生したのです。油彩をやろうにも絵の具などの画材は買えず、主に小学生の時から使いなれたクレヨン、クレパス、水彩の作品でした。
時代はやがて満州事変から日中戦争、そして太平洋戦争へ。江上さんは体格的な問題で兵役を免除されます。この頃に描いていたのが植物の細密描写。『私の鎮魂歌譜』というシリーズ画です。軍人が賞賛される世情、江上さんは肩身の狭い思いをしていました。職場の若い女性の多くは、憧れの目で軍人を見ていて、自分なんかには目もくれない、と思った江上さん。「青春時代の寂しさを慰め、魂を鎮めるために描いた」と、鎮魂歌譜について告白しています。
確かに江上さんの作品の中では静物画は多くなく、とりわけこの時期の花の細密画は特異です。
アトリエは板張り
三井三池鉱業所に勤めながら、休日になると大牟田市内に出てはスケッチを続けた江上さん。住まいだった大牟田市新地町の鉱山社宅の縁側にある畳1枚半の板張りが〝アトリエ〞でした。働き盛り、体力も旺盛な時期にはスケッチをもとにクレヨン、クレパスで分厚く絵を仕上げます。板張りに置いた用紙に膝を折ってしゃがみ込み、黙々描き続ける江上さん。
その姿を静かに見ている母は、散らかったクレヨン屑を箒で掃き、汚れた板張りを拭くなど毎日掃除をしてくれました。出来上がった絵は、時折絵の好きな知人に分けますが、大半は家の中や倉庫に積み上げるように保管しました。その数は8000枚を優に超えました。
黙って自分を支えてくれた母のため、『展覧会をやって、恩返しをしよう』と早くから心に決めていた江上さん。しかし簡単にはいきせん。オープンして間もない大牟田井筒屋(現在はありません)を訪ね、「展覧会を開きたい」と会場を貸してもらうよう頼みますが、「何々の会員とか、肩書のある人ならね…」と断られます。しかし大牟田文化連合会の安元薫会長や西日本新聞大牟田総局長(いずれも当時)の力添えを得て1972年にやっと開催にこぎつけました。最初の個展が開けたのは、すでに退職後のことでした。
安元会長は江上さんの絵を高く評価してくれました。西日本新聞は『路傍の画家』として記事で紹介します。ちょうどその年が大牟田文化連合会の創立20周年でもあり、江上さんは記念行事で文化連合会から表彰されました。江上さんにとって、表彰されたのは小学生以来のこと。〝一人の画家〞として認められた瞬間でした。
木版画絵「大牟田五十景」
市長・助役・会頭は買ってくれず
またこの年、江上さんは色刷りの木版画『大牟田五十景』を完成させます。以前から作り続けていた大牟田の風景や名物を描いた版画54点。これを絵はがきにしたのです。生活の足しに、退職後の収入に、と考え、販売に回ります。はじめは大牟田市役所、次に大牟田商工会議所に足を運びました。しかし市長、助役、会議所会頭など政財界のトップは、1枚も買ってくれませんでした。
今度は大牟田市内の全小学校を訪問。ある学校では1セットを買ってくれた校長に「じゃあ教室をのぞいてみるといいですよ」と言われて職員室を訪ね、先生方に一生懸命にお願いするなど、数年をかけて市内の学校で130セット全て買ってもらいました。1セット25000円でした。
江上さんがこの木版画を始めたのは、子ども(江上さんは結婚して3人の子がいました)が小学生の時に使っていた板の残りや彫刻刀が目の前にあったことがきっかけ。会社の正月休み、こたつの上でやってみたら『これは面白いな』と。版画作品では、大牟田五十景のほか、シリーズ『私の筑後路』を残しています。
定年退職後は社宅を出なければならない江上さん一家は、荒尾市万田に転居します。長男の徹さんが大学院生の時に設計し、江上さんが退職金をはたいて建てた新居。ここでやっと日曜画家を卒業し、台風の日や正月を除いてほぼ毎日外に出ては好きな風景画を描くことに専念できました。
画材を入れたリュックを抱えて自宅から歩いて出かけ、1枚の水彩画を仕上げて帰宅する毎日。
97歳まで30年以上も続けたのです。ただこの間には、目の病気(62歳)で医師から「絵はやめなさい」と言われたり、脳血栓で倒れて半身不随状態となった時(67歳)には医師から「なかなか元には戻らない…」と宣告されたり絵描きとしての危機も。それでも乗り越えられたのは、幼い頃の〝ひとりの画家として生きるんだ〞という思い、生きる意味そのものだったからでしょう。このころから手や指の力がいるクレヨン、クレパスをやめ、水彩画が中心となりました。
毎日出かけた先は、荒尾運動公園、万田山や小岱山を望む郊外、荒尾と大牟田の街角、海岸端など。
スケッチをする江上さんの横を、多くの人が通り過ぎたはずです。
しかし、不思議なくらい、まちの人の記憶に残っていないのです。風景を描く江上さんの姿まで景色に溶け込んでいたのかと思ってしまうほどです。
無学歴、貧困、孤独ー
今、最高に輝いて見える
絵を描くことを生業にしていないアマチュア。
専門の教育も受けず、誰にも師事せず、どの団体にも所属せず、美術雑誌と時々行く展覧会に触発されながら、自力ですべてを体得した独学、我流。クレヨン、クレパス、水彩、鉛筆、ボールペンや墨汁、定規、彫刻刀など、どこの文具店にもある安価な画材を使って創作する風景画、静物画、抽象画、版画。経済的理由からついに手を出さなかった油彩を除く様々なジャンルに挑戦し続けたのが、江上茂雄さん。
阿蘇や九重に行って雄大さと美しさに感動しても、決してそこ描こうとせず、ひたすら描き続けたのは、自らが生まれ、生き、そして終わる場所。2014年に101歳で没するまで、道端に座り2万点の作品を残した路傍の画家でした。
生涯ついてまわった無学歴、貧困、酒が飲めない体質。目の前の景色と手にした画用紙に、生命力の大半を注いだ孤独な画家が、どんな芸術家にも増して輝いて見えてきます。一枚の絵から伝わるのは、歩いて、出合った景色に全身を浸して描く喜び。そしてこの場所で生きた江上さんの鼓動です。
54年間に20回足らずの展覧会
〝この場所〞で常設展示ができれば
江上さんの作品は、1972年に大牟田井筒屋で開いた最初の展覧会のあと、77年に八女花園画廊、87年荒尾の高森画廊、89年と91年に福岡市美術館、93年熊県立美術館、2013年福岡県立美術館、田川市美術館、大牟田市立三池カルタ・歴資料館の各個展で披露されました。没後は2015年熊本現代美術館、2018年武蔵野市立吉祥寺美術館などで個展。
そして2026年の今、東京都美術館で開催中の『この場所の風景 上野・大牟田・ブエノスアイレス』は、第一部『上野―東京都美術館の100年』、第二部『大牟田―江上茂雄の100年』、第三部『ブエノスアイレス―《百日草の庭》をめぐる100年』の構成。江上さんの作品300点が展示されています。
10月7日まで。
江上茂雄という路傍の画家の存在を、大牟田・荒尾で知っている人は、果たしてどれほどいるでしょうか。作品を見た人も多くはないでしょう。
この場所(大牟田・荒尾)に「江上茂雄の作品を常設する施設があれば」と願うばかりです。
現在、多くの作品が福岡県立美術館に収蔵されています。その一部でも、〝この場所〞で見ることができれば素晴らしい。それができていない今、せめて「どがしこでん」でご鑑賞ください。芸術の秋ですから。
【参考文献資料等】
•江上茂雄作品集(江上茂雄著)
•江上茂雄 風ノ影、絵ノ奥ノ光
•福岡県立美術館HP
•美術手帳HP
•artscape HP
•日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイブ
【取材協力】
•大牟田市立三池カルタ・歴史資料館
•江上徹氏、江上しおり氏
※ありがとうございました